上海での個展に向けて、梅沢は次のようにステートメントを記しています。
「Everlasting Particle COREと永遠の世界について」
細かい絵が好きだ。顔料を含んだ筆やペインティングナイフを画用紙や印刷物に触れさせ、紙や絵具の細かな繊維や粒子まで感知し画面を埋めていく作業は、素朴な快楽がある。こういった作業を延々としていると、本当に細かな世界のコア、分子や原子の世界まで知覚できているのではないかと思う。もちろんそれは勘違いで、集中した結果ハイになっているだけだ。しかしこの、細かな制作の集中の果てに人の認知の限界を越えた世界に触れられるのではないかという期待、錯覚は制作のモチベーションの一つになっている。
ディスプレイ上で画像をコラージュしていき、細かな1ピクセルの調整や、コピーアンドペーストを繰り返していく時の作業も、同様に快楽がある。現実の物質に向かって制作する時と違うのは、それが仮想の電子上の光によって表示されている点で、1ピクセルより小さい世界は原理的にこのモニターの中の世界にはない。この仮想の世界に、自分は魅了され続けている。
これらの集中を要する作業は、自分が身体をもった人間であること、死という限界をもっていることを少し忘れさせる。私は強くタナトフォビア(死恐怖症)の性質を持っており、キャラクターやデータに対する執着はそれに関係している。自身の意識を保ったまま、身体が消失して永遠に生きられたらと思うが、それは架空の世界のキャラクターがよくそうなっているだけで、実際にはかなり難しいというのはわかっている。単に、そういうものに憧れがある。
作品の中で扱われているモチーフについて言及しておく。私は、インターネットやそれに関連するアニメ、漫画、ゲームといったいわゆるサブカルチャー、そこに登場するキャラクターが好きだ。それらの画像を集めてただ眺める時間が1日の中でも多く、ディスプレイ上で組み合わせてデスクトップの壁紙として設定していた日々の作業が、現在の作風に繋がっている。世代的には私は日本の90年代〜ゼロ年代、2010年代付近のサブカルチャーに浸かっており、扱うイメージや雰囲気はそれらの影響を受けたものとなっている。複製技術や印刷技術の発展した先として通信技術やインターネットがあるとして、大きな違いは物質から形のないデータのやり取りになったことだろう。物体から解放されたさまざまな作品は、回線の速度の向上とともに流通も加速し、サブスクリプションとして流れるように消費されていくようになった。次々と生まれ消費され消えていく様々なキャラクター達はそもそもそういった加速し続けるコンテンツ形態と相性がよく、セカイ系やループ物と呼ばれるような物語とも無関係ではない。キャラクターやデータは、増えていくし消えていく。彼らは、電子を通してディスプレイ上に表示されるというかりそめの存在のあり方ゆえの儚さがあり、あくまでイメージでのみ存在し、共有されていく。にもかかわらず、未だ印刷の流通も同時に行われている。紙や箱に印刷され、売られ買われ、大切に保存されたりしていく。ディスプレイへ表示されるだけで立ち現れる(そして動いたり、音も出る)という役目は果たせるのに、補完的に印刷物としても複製され続けるのはなぜなのか。人間の、物質に対する執着の性が透けて見える。
私が物質としての作品を作り続けているのも同じことが言える。データのみで成立しうるアート作品は改めて説明するまでもなくさまざまな選択肢とともに存在している。しかし、物質としての支持体と絵具、粒子との絡み合いを捨てきれずにいる自分がいる。物質としての身体に縛られているとも言える。同時に、印刷物として存在する前、粒子や顔料に変換される前の細かなピクセルのひとつひとつも捨てきれずにいる。その両方を捨てずに作品として具現化するため、データで画像を作り印刷して加筆するという手段を用いている。暫定的な手段として扱ってきたつもりだが、StareReapはその暫定的な手段としては十分過ぎるほどの強度を持つ技術だと思う。物質と仮想の電子の光、両方の表現を繋ぐメディウムとして心強い。そこにはディスプレイ上で制作した画像と、自らの手による加筆が反映されている。一見平面に見えるようで、非常に細かな立体感があり、増え続け消費され続けてきたキャラクター達のゴーストが、物質として別の形で現出したかと錯覚するようだ。
永遠に生きることは難しいかもしれない。しかし、作品制作の集中のふとした瞬間と、キャラクターとデータの世界には、そのヒントがあるのではないかと思っている。
あらゆる細部のコアには、永遠の世界が宿っている。そう思いながら作品を作っている。
—— 梅沢和木
印刷は言うまでもなく、複製技術の一種として誕生しました。古来より多様な印刷技法が研究され、現代アートにおいてはマルセル・デュシャンやアンディ・ウォーホルが「複製」やその背後にある「消費」や「死」の意味を再考しています。梅沢の作品もその延長に位置づけることができますが、加えて現代の日本社会におけるサブカルチャーのスピーディな消費と再生のサイクルにも言及し続けています。梅沢は制作において、自身の過去作品の図版を素材として再利用したり、曼荼羅を思わせる構図を頻繁に取り入れています。それはあたかもイメージが輪廻し続けているようでもあり、本展出品作においてもそのような一面を垣間見ることができるでしょう。
梅沢にとっても初めての機会となる上海での個展は、”StareReap”の新しい一歩を踏み出す意義深い展覧会となりました。本展を多くの方にご高覧いただきますようお願い申し上げます。